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国家と国民 (エレミヤ21:8-22:5, ペトロ一2:9) 


★聖書の言葉は https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html から検索して開くことができます。
 
◆「戦争」の意味
 
3月は、ローマ帝国では1年の始まりの季節でした。ローマ帝国は、広大な帝国を長期にわたり維持できた稀有な帝国です。それは、武力で殺戮を繰り返したためというよりは、武力を背景に、できるだけ平和裡に支配下に入るように交渉したのだと伝えられています。比較的寛容に、自治を認めた、というのが実情のようです。
 
現代世界では、なかなかそうはゆきません。強大な武器を互いに有する国家があるため、いざ戦争が起きれば国全体が破壊され、人間は殲滅に至ると思われます。軍備だとか戦力だとかいうことにも、そして国際情勢についても全く何も知らない私がいろいろ言うのは、無責任なことかもしれませんが、ひとつここから見える風景をお知らせしようと考えています。
 
国家の危機を煽る人々がいます。恐怖を懐いているからかもしれません。攻められてきたらどうするのだ。軍備が必要だ。そう主張しています。分かりやすい論理です。それに対して疑念を言う者には、家族が目の前で暴力に遭い、また殺されるのを黙って見ているつもりなのか、と丸腰の姿勢を否定するわけです。
 
けれども、近年の、あるいは近未来の戦争は、そうした風景をつくりだすのかどうか、極めて疑問です。強力な爆弾が炸裂すれば、一瞬で終わりです。太平洋戦争のときに、爆撃機が空を飛ぶ下で、竹槍を構えて訓練する姿は、当人たちは必死であっても、傍から見れば甚だ滑稽でしょう。それなのに、彼らは「戦争」という言葉で、竹槍を想定して、軍備云々を考えているのです。
 
かつて「戦争」という言葉が使われていたとき、それが指していたものと、いま私たちの現実の中で「戦争」と呼ぶものとは、決して同じものではありません。もはや文献の中の「戦争」についての議論を、いまの世の中で同じように適用することは、もうできなくなっているのです。
 
また、現代では、曲がりなりにも「戦争犯罪」という言葉があり、国家間では建前上であっても、それを認め合っていることになっています。しかし過去の戦争には、そのようなものは考えもつかないものだったことでしょう。強者がひとたび攻撃してくれば、筆舌に尽くしがたい残酷なことが平気で行われていたことでしょう。旧約聖書の中に描かれるそうしたシーンは、決して空想のものではないと思うのです。
 
日本の戦国時代のドラマや映画は、とても人気があります。そのときの戦では、どれほど残酷なことがなされていたか、当時の戦場を間近で見ていたら、私たちは正視できないでしょう。それが当然という常識の中で育てられていたら、死を覚悟するとか、命を捨てるとかいうことは、いまの私たちとは全く違ったものに認識されていたに違いありません。
 
◆旧約聖書の「戦争」
 
「旧約聖書」と聞いて、「聖なる教え」というイメージをもつ方もいるでしょう。聖書を知る人からすれば、旧約聖書の神は恐ろしい、とお感じの方もいるでしょうか。殊「戦争」に関しては、旧約聖書はなんと戦争ばかりしている、とお思いの方もいるかと思います。キリスト教はどうして戦争が好きなのか、という問題を考える人もいます。
 
実際に読めば、神が、敵を殺せと迫る場面に多々出合います。特に、エジプトを出たイスラエル民族が、いまのイスラエルの土地に入るにあたり、手当たり次第に先住民への殺戮を繰り返す様は、目を塞ぎたくもなりますし、それも神が「殺せ」と命じている点については、耳を塞ぎたくもなります。しかも「殲滅」というに相応しい態度を求めているのです。
 
そればかりか、滅ぼせと命じた神の命令に反して、殺すに惜しい、と見逃したたサウル王が、イスラエルの王から駆逐され悲惨な死を遂げたことなどを見ると、現代の視点からすると信じがたい神の仕打ちだと思えます。
 
一口に「旧約聖書」と言っても、その歴史は千年単位のものです。伝説に過ぎないのではないか、と疑いを向けられたこともありますが、考古学は、それらの出来事の一部は確実に起こったことだと証拠立てています。バビロン捕囚についても、それが架空だとする人はいません。学校の教科書にも載っています。
 
もちろん、聖書に記録されているそのままそっくりの事実だ、とするには無理があるでしょう。けれども、大筋でそれは歴史的出来事であった、と見て差し支えないと認められています。
 
この捕囚の最中に、神の言葉を人々に伝えた預言者として、エレミヤという人物の言葉を今日は見ることにします。実は私がたいへん好きな預言者であり、好きが膨らんで、小説仕立てにしたこともあるほどです。これまでもこのようなメッセージの中で、幾度も引用してきました。
 
少しばかり確認しておきたいことですが、エレミヤ書という預言書は、他の預言書とは幾らか変わった特徴をもっています。ふつう預言書と言えば、預言者が「主は言われる」と、神からのメッセージを、神に代わって民に伝える、という形式をとります。エレミヤ書にも、もちろんそういう部分はあります。しかし、それはエレミヤという人物を描く中での一コマなのです。
 
つまり、これは殆どエレミヤの伝記のようになっているわけです。イザヤ書も最初、いわゆる「召命」という、預言者に任命される場面もあり、また王を訪ねるといった場面もありますが、あとは殆どイザヤを通して、「主は言われる」という言葉でした。けれどもエレミヤ書は、エレミヤが「召命」を受けて後、誰がどう関わり誰とどう論争し、人々からどんな目に遭ったなど、エレミヤの人生を辿ることができるようになっているのです。
 
尤も、どういうわけかエレミヤ書は時間軸に沿って読めるようにはできておらず、時系列通りに読むためには、解説書の助けがどうしても必要になります。
 
◆エレミヤ
 
さあ、いまエレミヤは不安です。厳しい情勢です。バビロンの王ネブカドレツァルがユダ王国を狙っています。すでに北イスラエル王国は、紀元前722年頃、アッシリア軍により滅亡しています。それから130年ほど経っています。
 
ユダ王国は、北のアッシリアと南のエジプトとが睨み合う間にいて、双国がぶつかることを防いでいたとみられることがあります。しかし、アッシリアを倒したバビロニア帝国は、ユダがエジプト寄りの動きを見せたことで、ユダ王国を直に攻撃しようとしてきます。弱小国は、百戦錬磨のバビロニア軍が来るという噂を前にして、為す術がありません。
 
我々もあの北イスラエル王国のように、滅んでしまうのだろうか。否、イスラエル王国は、エルサレム神殿から離れ、神に背反した故に滅んだのだ。ユダ王国にはエルサレム神殿があるから大丈夫だ。そういう、信仰を根拠にするのが、政教の分離しない施政者の目論見だったかもしれません。
 
だが本当にそうなのか。エレミヤという預言者がいま力強く神の言葉を語っている。ひとつ、エレミヤの口から、神は国を護る、という言葉を聞きたいものだ。政教の担い手が、エレミヤの下に使者を2人遣わします。
 
このときの王は、ゼデキヤ。ダビデの系統に立つ、南ユダ王国の正統な王です。入れ替わり立ち替わり暗殺で王家を絶滅させた北イスラエル王国に対して、神に愛されたダビデの家系は、神が絶やさないと誓った約束の通りに、その血筋がずっと続いていました。しかし、それぞれの信仰の良し悪しは様々でした。偶像を拝む王も現れましたが、「主の僕ダビデのゆえに」、神は滅ぼすのを控えていたのです。ゼデキヤも、信仰の点では良い方でした。
 
そこでゼデキヤ王は、主がこのユダを救ってくださるかもしれない、という期待を抱いていました。だからエレミヤに、それを支持してほしかったに違いないと思います。ところが、エレミヤはそんな人間臭いところに、語る言葉の根拠を置いていません。ただ主から授かった言葉をのみ語ります。
 
誰が知恵ある人で、これを悟ることができるか。/主の口が語られたことを告げるのは誰か。/どうしてこの地は滅び/荒れ野のように荒れ果てて/通り過ぎる人もいないのか。
主は言われる。それは、彼らに与えた私の律法を彼らが捨て、私の声に聞き従わず、それによって歩まなかったからだ。彼らは、そのかたくなな心に従い、また、彼らの先祖が彼らに教えたバアルに従って歩んだ。(エレミヤ9:11-13)
 
こんなふうに、主への背信が国の滅亡をもたらすことを、常々告げていたのです。それで、王から遣わされた使者に対しても、冷たい結論を言い渡します。それが今日の、エレミヤ書21章です。
 
10:この都はバビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう。
 
ユダは、大国バビロニア軍の前に、もはや為す術はない、と断言するのです。
 
◆降伏の勧め
 
それは辛いことです。何をされるか分かりません。国際法もありませんし、何をも裁く存在はありません。絶望的な情況です。しかしまた、問題は「その後」にもあります。国民は、生きながらえることができるのでしょうか。エレミヤは、ただ単に国がどうのこうの、だけを心配しているのではありません。いったいここに現実にいる人々は、この困難の中で、生きてゆけるのでしょうか。命は助かるのでしょうか。個人の生死はどうなるのか、預言者エレミヤは心配しているのです。
 
もしかすると、国が戦争で負ければ国民の命もなくなる、と考える人がいるかもしれません。しかし太平洋戦争で敗戦した日本には、日本人がいなくなったでしょうか。そんなことはありません。イスラエルを占領しようとしたバビロニア軍とて、要するにその地をバビロニア帝国が権力者として治めていればよいわけです。元の人民が作物をつくり、産業に励み、その成果を帝国に納めるようにすればよいのです。
 
戦争で敗れた国も、国民の命がなくなるわけではない。その中で、エレミヤは一人ひとりがどうやって生きてゆくかを問題にしています。そしてそこに、「命の道と死の道」が置かれている、というのです。
 
エレミヤは何と言ったでしょう。カルデア人というのは、バビロニア軍のことですが、「カルデア人に降伏する者は生き」る、と言うのです。自ら負けを認めるのがよい、と言うのです。どうしてか。「ユダの王家」の中には、これまで主に背を向けた者が幾人もいたのです。主の僕として愛されたダビデの血統は、王家として保たれましたが、ついここへきて限界がきたのです。
 
アッシリア軍が来て風前の灯となったときも、まるで神風が吹いたように、敵が消えてしまったではないか――そんな都合の好いことは、もう起こりません。では自衛しかないではないか。なんとしても闘うのだ。そうだ、エジプトが守ってくれる。友好国エジプトに頼れば、バビロニア軍が攻めてきたとしても、安心ではないか。そんなことを言う政治家がいたとしても、そんな甘いことを言っていると、外交音痴としか呼べません。イスラエルは本当に滅亡してしまいます。
 
でも、イスラエルは神に愛されている。立ち直る道はあるのだ。エレミヤは確信しています。「公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい」と呼びかけます。そうすれば、「ダビデの王座に着く王たち」はこの国に再び入るであろう、と言っています。
 
エレミヤは、分かっています。それが架空の話だ、ということを。公正と正義をなし得なかったからこそ、この事態になるわけです。「自分たちの神、主の契約を捨て、他の神々にひれ伏し、これに仕えた」からには、ここは「人の住まない町」になるであろう、というのが現実です。
 
ユダ国の為政者には、もう断罪しかありません。あなたたちのせいで、こうなったのです。国としては、一度その独立を放棄しなければならないのです。ただ、これで国が本当に消滅するということではない、とエレミヤは主から教えられていました。ここに「命の道と死の道」が与えられています。選択肢は二つです。そして一人ひとりに、そのどちらを選ぶかと問いかける可能性があることを示唆しました。さあ、あなたは、どうするのだ、と。
 
◆選択
 
「命の道と死の道」の二つが目の前にあります。二つのうち、選べるのは一つです。このように二つに一つの選択肢ということで、私はよく理科の問題を思い起こします。小中学校の理科ではよくあります。ブラスかマイナスか、右回りか左回りか、上か下か、NかSか。どちらかが正解です。それを迷わず選べるような勉強をしなさい、と指導します。
 
私たちの人生でも、二つからどちらを選ぶか、という機会があるでしょうか。人生の選択肢は、もっと多くの中から選ぶような気がしますが、するかしないか、という二択を考えるならば、肯定と否定の二つの選択肢しかないことになります。
 
「命の道と死の道」との選択で、エレミヤの他にすぐ頭に浮かぶのは、申命記です。先週、正にそこを取り上げてお伝えしました。そして、「自由」と「信頼」を鍵として、神の道を選ぶただ一つの可能性だけを、キリスト者はもっている、とお伝えしまた。それは決して、神に無理矢理させられているのではありません。人は神を信頼することによって、自らの信仰がただ神をのみ選択するのです。
 
聖書が、あちこちで二者択一の問いを人間にぶつけているのを見ることができます。しかしまた、ヘーゲルが、対立したものがただ平行線で終わるのではなく、「正」に対して「反」が生まれてきても、それらを一つ高い段階で対立を解消し、新たな地平が見えてくる経験をするだろう、というような考え方を強調しました。
 
それは、私たちの社会生活の知恵であるかもしれません。ただ意見が対立するだけだと、不毛な議論となります。結局数の多い方が完全に勝利する結果になることを「民主主義」と呼び、その「民主主義」を偶像のように慕っている人々、またそうした「民主主義」を利用することによって、権力支配を己が自由にやろうとする場合もあるでしょう。
 
福音書でイエスは、「わたしに従いなさい」と幾度か人に声をかけました。また、ある場面では、ひとのことを気にする者に、「あなたは私に従いなさい」と迫ったこともありました。このようなイエスの迫りは、あなたにはありましたか。あったならば、それを避けたりごまかしたりしてはいけません。あなたは確かに、二つのうちどちらを採るのか、問われたからです。
 
神を選ぶのがキリスト者だ、とは言いましたが、常に迷いなくそれを選ぶというようなことは、私たちにはたぶんないでしょう。しかし、繰り返しますが、先週のようにして、実のころ選ぶのは一つだけだ、と立ち上がるのが、キリスト者の信仰理解であるわけです。
 
◆世の政治
 
エレミヤとて、そのことは分かっています。「命の道と死の道」と挙げた時点で、これは「命の道」を選ばないと不幸だ、ということは、火を見るより明らかです。ただ、エレミヤの提言を聞いて、これこそ神の道だ、ときっぱり選ぶことができるかどうか、私たちは自分に問いかけてみます。
 
私たちがエレミヤの時代にいたとします。現実政策を主張するグループは、有名な政治家たちです。そこへ、「降伏せよ」などと言う、ふぬけの自称預言者がいます。私たちは結論として、こちらの方が命の道であったことを知っているのですが、本当にその場面に私が置かれていたとしたら、市民の末端のようなエレミヤの言うことを、信用したでしょうか。私は、無理ではないかと思います。そう思いませんか。先のことが分からない中でしたら。
 
だから、こちらが神の道だ、と簡単に分かる情況ではなかったわけです。エレミヤの提示したことは、本当に信頼できるのかどうか、はっきりとはせず、悩ましい気がします。
 
それが神から来た預言であるのか、人から出たデマであるのか、悲しい哉、私たちは確実に判別する手段をもたないのです。だからまた、「偽預言者に注意しなさい」(マタイ7:15)のようなことをイエスも言ったのです。難しいのです。あの当時、ネームバリューがあったにしても、エレミヤの言うことが正しいかどうか、分からないではありませんか。
 
「主は言われる」とエレミヤは言う。でも、偽預言者も、「主は言われる」と言うくらいは簡単なことです。何を信用すればよいのでしょうか。誰を信頼すればよいのか、決め手があれば知りたい。それはまた、国政選挙の結果を見るときに思うことがあります。どうして有権者の多くが、それを選ぶのか、理解できないことが多々あります。金回りをよくしてくれるという約束に振り回されて、一票を投ずる人の、なんと多いことか。
 
「経済」という美名を帯びた、「金と富」に、どうして命を売ることができるのか。私は分からないでいます。「ひと」と同じようにしていればいい、と命を売り飛ばすのか、分からないでいます。どうして、エレミヤの言葉を信じようとしなかったのか、あの時代の出来事を考えると、人間は何も進歩などしていないのだ、と気づかされる思いがします。
 
エレミヤは、書かれてあることから察するに、政治権力に逆らう意見をもっていたようです。だから世間は、政治家の味方でいることを正義だ、と信じてしまっていました。それに加担する新聞がいやらしい揶揄をするように、エレミヤが気に入らない多数派の人々は、エレミヤが不幸になることを望んでいるように行動しました。
 
エレミヤは、国が滅びても、人は生きる、と言いました。しかし世の政治は違います。国が成り立たないならば誰も生きてゆけない。だから、国を守るためにおまえは死ね。弾の飛んでこないところから、決して戦争に行かない老人が、そのように教育してきた若者を戦地に送り出します。その犠牲は尊いと褒めそやし、国を守るために戦って死んだら「カミ」になるのだ、と何百遍も言います。国民の命は、国のための手段とし、実体のない「国」という偶像を掲げ、悪魔に仕えさせます。それはエレミヤの言う「搾取」ということそのものです。
 
3:主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人の血をこの場所で流してはならない。
 
◆国家
 
クリスチャンの中にも、政治的な意見は様々あります。憲法を守れという人もいれば、軍備の必要を強調し、憲法を変えるよう訴える人もいます。教会の中で政治的な話題を議論に上らせると、分裂が起こりかねない、と危惧する牧師もいました。だから、説教はもちろんのこと、歓談の中ででも、政治的な意見を口にすることはありませんでした。賢明なことだと思います。
 
かと思えば、政治家の悪口を説教壇から言えば、自分が正しいかのように錯覚していることが分かるからくりにも気づかぬままに、安物の冗談でも言って、礼拝説教でウケようとする語り手もいます。
 
説教という、神の言葉を取り次ぐ場で、政治的な話を意見が分かるように語ることは、私にはあまりよいことではないように見えます。ただ、政治的なことを語る牧師をすべて問題視するつもりはありません。キング牧師は、黒人差別のために説教をし、呼びかけています。それは、本当に悲しいことですが、命を懸けた訴えでした。
 
神の言葉は、語られた瞬間は、音声に過ぎません。言葉に過ぎません。しかしそれが神の言葉であるのなら、それは事件あるいは出来事として、この世界に起こるものです。少なくとも聖書の救いを受けた人は、説教の言葉をそのような場だと知っています。
 
先ほど、「実体のない「国」という偶像」という言い方を私はしました。これについては、少し付け加えておこうと思います。そもそも「国」または「国家」とは何なのでしょうか。「これ」と指させるものはないだろうと思います。幾ら領土や領空、領海について学習して知っていたにしても、「国」のために死ね、ということが、領土のため、領空のため、領海のため、ではないことは確かです。
 
国家という呼び方は、必ずしも古来そうだった、とは呼べないような気がします。誰もが当たり前に、前提を問うことなしに、「国」と呼べるものは、果たしてあるでしょうか。古代ギリシアはポリス社会だったし、ヨーロッパでも、イタリアやドイツは特に、領主程度の単位がありましたから、領主の支配する範囲だけが「国」のようなものでした。江戸時代の「藩」のようなものなのでしょぅか。地方豪族が治めていたまとまりを、「クニ」と呼ぶことは、歴史の授業で習ったことでしょう。わざわざ「国」と区別するためにカタカナ表記をしますが、私たちにとり、「国」や「国家」は、決して自明なものではないのです。
 
人間は自然的に闘争するものだから、国家なるものに個人は権利を譲渡して、契約とし、国家には特別な権利を与えて支配権を委ねる。近代はそうした思想から国家をつくるようになりましたが、それは必ずしも人類普遍の原理ではないことが分かります。
 
それでは、教会が「神の国」のひとつと理解することについて、こうした考察をきっかけに、もっといろいろ洞察し、対話や議論をしてもよいのではないでしょうか。私たちは、イエス・キリストの死と復活をも通して、その「神の国」の民とされたのです。私たちの国籍は天にありますし、私たちはその神の国の国民なのです。

 

 

 


ダビデの王座に着くユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、
これらの門から入るあなたの民も、主の言葉を聞け。(エレミヤ22:2)